初代 小倉圓平
圓平窯(圓平陶苑)を開窯した初代、小倉圓平は明治20年に淡路島で生まれ、津名郡立陶器学校(現在の淡路市)にて学ぶ。戦争中は、満州に移り「圓平陶苑」を築き、満州風俗人形(圓平人形)を作成する。この圓平人形は、当時滅びつつあった満州の郷土芸術を復興するべく制作した満州の風俗人形で、好評を博し、満州国皇室の御用達となる名誉をも授かった。昭和11年には満州国皇帝の宣統帝溥儀から天皇家への満州土産として圓平人形が選ばれた。終戦に伴い満州から引き揚げ、淡路島で圓平窯(圓平陶苑)を再び開窯した。また初代、小倉圓平は、「龍洲」という画号をもつ日本画家でもあり、趣味として俳句を詠み、多くの文化人とも交流があった。戦後、再び開窯してすぐに亡くなったが、多彩な才能をもつ人だった。
二代目 小倉圓平
二代目小倉圓平は、6代目清水六兵衛に師事、その後、京都陶磁器試験場、釉薬科及び彫刻科にて学ぶ。初代小倉圓平の死後、二代目小倉圓平に襲名、昭和37年には『やきものの入門のすべて』を出版する。二代目は、長年、淡路美術協会会長を務めたほか、淡路文化協会に関しては、設立から参加し、長年、淡路文化協会会長としても力を注ぎ、兵庫県文化功労賞を受賞するなど、淡路島の文化向上、普及発展の為に貢献した。